2006年08月24日

坂東眞砂子の子猫殺し

ネット上で騒然となっている、日本経済新聞8月18日夕刊に掲載の坂東眞砂子のエッセイ。
遅ればせながら、今朝この話題を知って、さっそく会社で取っている日経の該当紙面をひっぱり出して読んでみました。
(以下長文。興奮気味です。)

世の中には様々な考え方の人がいて当たり前ですが、やはり世の中大多数の人々が持っているであろう価値観と相当にかけ離れた考えを、あのような形で語られると唖然とするしかありません。
そして、このような考え方しかできない人間になってしまったなんて、本当にかわいそうだと憐れみの気持ちが湧くとともに、憤り、怒り、悲しみその他全ての負の感情があふれ出してしまいました。

昔、モモと暮らし始めた当初は、「避妊手術はするべき」派だった私。今も「したほうがいい」とは思っていますが、いろいろな考えやエピソードに触れるにつけ、今は「するべき」までは思っていません。
ただし、それは、避妊手術をしないことによって生じる事態を全て理解し受け入れていれば、という条件付きです。
つまりは、望んで交配をさせた場合にあっては当然のこと、望まずして新たな命が誕生してしまった場合においても、責任を持ってその命が幸せに生きられるように最大限の努力をし、努力だけじゃなく実行する覚悟を持っていれば、ということです。
それが、本当の「飼い主の責任」でしょ。
現在一緒に暮らしている命だけではなく、その後に続く命にも、当然責任というのはついて回るのです。
そんなの常識ですよ。

坂東眞砂子曰く
『飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。』

どうです。「ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」ときたもんだ。
同じなの?ほんと?へぇ、知らなかった。…って、誰が思うのそんなこと。
実際生まれてるんだよ?息してるんだよ?心臓の鼓動を感じるんだよ?みゃあって鳴くんだよ?何より、温かいんだよ。
そんな子猫を手の上に乗せて、よく崖の上から放り投げれるものだよ、ほんとに。カンベンしてよ。

坂東眞砂子曰く
『だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。』

ふーん、そういうふうに思って猫を飼ってるんだ。
つくづくかわいそうな人。
きっとこの延長で、生かせてやってるんだ、的な考えなんでしょう、きっと。

坂東眞砂子曰く
『もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。』

あなたが崖の上から放り投げて殺してしまったかわいそうな子猫が言葉を話せたら、あなたになんていうでしょう。


坂東眞砂子曰く
『獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。』
また、『愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。』

あなたの言っている「獣」って、人から餌を貰っていない野性の中で生きている動物のことでしょ?
そういう「獣」なら「生=セックスして子どもを生むこと」なのは当然。
いつでも餌があるわけではないから、いつ飢え死にしてしまうかもしれない。いつ、捕食されてしまうかもしれない。そして、生まれた個体の全てが成体まで成長できるわけではない。
こういう条件下で生きているから、少しでも多く子孫を残さなければとなるんでしょ。
愛玩動物として動物を飼った時点で、もうその動物は「獣」ではなくなってしまうのだと思う。
良くも悪くも人間の管理下に置かれてしまうのだもの。
あなたの言う「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。」というのは良く分かる。
分かるけど、その後のフォローが全然違ってるよ。ほんと勘違いもいいところ。
人のわがままで一緒に暮らしてくれている動物に、どう報いるか、でしょ?
いいところだけ、「猫を飼ってます」で、都合が悪くなると「獣の生を大事にしたい」なんて、それは「人としてのわがまま」でもなんでもなく「あなた個人のわがまま」です。

それと、ここ重要。
「生=セックスして子どもを生むこと」以前に「生=生きること」ですから。


坂東眞砂子曰く
『タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。』

いいかげんにしたら?
場所のせいにするわけですか。
タヒチの人々にすっごく失礼な話だよ。
タヒチに死骸がごろごろしてるのって、タヒチの人々があなたみたいに崖の上から温かい体温をもった無抵抗の生まれたばかりの命を投げ捨ててるってことなの?
そうじゃないでしょ。
死骸がごろごろしてるから、そこに1個ぐらい「自分が殺めた子猫が」ころがっててもいいってか?
ふざけんな。


あぁ、だいぶ言葉が汚くなってきました。
もっともっと言いたいことはあるけれど、尽きることがないのでこの辺でやめます。

今日一日中、心の中がモヤモヤしていて、せっかく素敵な写真展に行ったのに、その感動も電車の中でこの問題を考えてたら、汚されてしまったような気がしてとっても損した気分。

とにかく、坂東眞砂子の言ってることは、公共の紙面を使った壮大なイイワケ。
文面には矛盾とエゴとあまりにもひどい自己中心的な考えで満ち溢れています。
理不尽な怒りにわななきたくない方にはお勧めしませんが、全文を読みたい方は「きっこのブログ」さんのこちらの記事参照してください。

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